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食の大正・昭和史 第百五回
2010年12月22日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第百五回

                              月守 晋


●疎開・敗戦

1943(昭和18)年春、哲二は早朝ドアをどんどんたたく郵便配達夫の声で起こされた。 速達は郷里の兄からのもので末弟人士の戦死を知らせるものだった。

人士は整備兵として搭乗していて戦闘中に乗機が撃墜されたのだった。 戦死して海軍兵曹長(へいそうちょう)に昇進されたと述べ場所はフィリピン沖とだけ書かれていた。

哲二は寝間着の上にインバネスを羽織り新京神社に向かった。

日本各地から「満州」に集まってきた満鉄社宅の住人はほとんど宗教とは無関係にくらしていた。 盆などの年中行事はもちろん先祖や親などの年忌を実行する家庭も数少なく神棚・仏壇を備えている家庭はごくまれであった。

そういうくらしを続けていた哲二が人士の戦死を知って何事かを“神”に祈らざるを得なかったのだった。

哲二は昭和17年の春、休暇を取ってわざわざ神奈川県横須賀の海軍鎮守府にいた人士に会いに行っていた。 結果的にこれが兄弟の最後の別れになった。

1944(昭和19)年になると日本の劣勢ははっきりと見えてきた。 ただ、ほとんどの日本人がそれを知らなかっただけである。

『少年の曠野』には「満州」での戦時情報には日系の新聞・ラジオの報道する「皇軍の連勝ぶりや聖戦の美談」などと「ノモンハンでの日本軍の惨敗や中国大陸での日本軍の民衆に対する蛮行エピソード、などのように邦人間にじわじわ流布されるウラ情報」、さらには現地人の間に伝わる「口コミ情報」の3つがあり、最後の口コミ情報は「軍部にだまされながら必勝を信じている日本人」には教えられなかった、と書いてある。

『満州走馬燈』(小宮清/KKワールドフォトプレス)にも同様の体験が語られている。 奉天(瀋陽)でくらし、お茶屋の下働きをしていたチャン少年と友だちになったキヨシ少年はチャンから「日本負ケルヨ、イバル人ターピーズニミンナ殺サレルネ」と聞かされる。 「ターピーズ」は「鼻の高い人」の意味でここでは「ロシア人」の意味である。

1945(昭和20)年8月9日、ソ連軍が国境を越えて「満州」になだれこんできた。 翌日ソ連機の空襲があり南新京駅付近で黒煙が上がった。

志津さんたち新京在住者には知らされていなかったが、前年の昭和19年7月29日の正午過ぎ四川省成都から飛来した米軍爆撃機B29によって鞍山製鋼所と奉天市が空襲をうけていた。 鞍山は9月26日までに5回、奉天も再度空爆されていた。

しかし、こういう情報は一般の日本人居住者には知らされていなかった。 新京の日本人は「無敵の関東軍が守ってくれる」と信じていたのである。

ところがその関東軍は大部分が南方戦線に送られて「満州」はガラ空き状態になっていたのである。 しかも関東軍は防衛範囲を朝鮮との国境を底辺として新京を頂点とする新京―図們、新京―大連を2辺とする三角形内のみを防衛すると決めていた。

つまり、この三角形外の地域に住んでいた開拓団民などは軍によって棄てられていたのである。 しかも軍は空っぽの部隊の穴埋めに開拓団の18~45歳までの男を根こそぎ動員したのである。

志津さんたちに疎開命令が下ったのは9日だった。 2月に吉林鉄道工場に転勤になり主人不在の一家の先導役は比呂美だった。

一家は11日午後、南新京駅から疎開列車に乗り、平壌(ピョンヤン)郊外の農村の小学校に翌々日に到着した。

8月15日、ここで日本の敗戦を知った。


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