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庄野潤三
2010年08月25日

45「家に戻って、炬燵(こたつ)でお茶をいれ、チョコレートを一つ食べる。おいしい。」
    

   『せきれい』庄野潤三/文春文庫

太平洋戦争の対日平和条約が調印され発効した昭和26-27(1951-52)年ごろから作品が認められはじめて「第三の新人」の呼ばれるようになった一群の作家たちがいました。小島信夫、吉行淳之介、遠藤周作、安岡章太郎といった作家たちで庄野潤三もその一人でした。 第三の新人たちの文学に際立っていたのは日常性を強く意識して書いているということでしょう。

庄野は昭和30年1月に『プールサイド小景』で芥川賞を受賞していますが、この作品も家庭の危機と崩壊が淡々と描かれています。

『せきれい』は著者の「あとがき」によると結婚50年を迎えようというころに「もうすぐ結婚五十年を迎えようとしている夫婦がどんな日常生活を送っているかを」書いたのが『貝がらと海の音』(「新潮55」に連載/1996年)、『ピアノの音』(「群像」/97年)そしてこの『せきれい』(「文学界」/98年)と続く一連の作品だということです。

その自解どおり、たとえば「函館みやげ」とメモを1行書き、それに関連するさまざまのディテールが説明されるという独特の書き方が展開されていきます。

たとえばタイトルの『せきれい』は「ピアノのけいこ」という1行メモの後につづく文章によって“ブルグミュラーという作曲家によるピアノ練習曲”だとわかります。

著者の奥さんはピアノを習っていて、姉弟子の絵里ちゃんが小学5年生の時に始めてその絵里ちゃんが今は中学2年生だということなのでもう4年近くピアノを習いに通っているのだということが読者にもわかります。

この小説ともエッセイともつかぬ作品にはよく食べ物のことが書かれています。

たとえば「函館のカレー」とか「伊予の種なし葡萄のピオーネ」、「イギリスパン、胚芽パン、フィッセル(小型のバゲット)、クロワッサン、ガーリックトースト」などのパン類、高田馬場のコーヒー店「ユタのミックスサンド」や「長女のアップルパイ」などなど。

長女の名前が「なつ子」で南足柄に住んでいて父親の誕生日には手づくりのアップルパイが宅急便で届くのです。

小澤征良(指揮者小澤征爾の娘、作家)が『せきれい』を読んでいたら「自分の気持ちが自然に少しずつばたばたすることをやめていくのに気がついた」と書いていますが、結婚50年をすぎた老夫婦の日常にはわれわれとはまったく違った、充実した時間がながれていることを知らされます。

冒頭の文章の「チョコレート」は著者夫婦が用事で「成城」に行き、「石井」で買って帰ってきたチョコレートです。


食の大正・昭和史 第八十八回
2010年08月25日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第八十八回

                              月守 晋


●志津さんの渡満 - うすりい丸(2)

昭和10年2月に大阪商船が発行した『日満連絡船案内』によると「三等室は小奇麗な絨毯(じゅうたん)を敷詰めた平座敷を多数の小座敷に区画」してある、と説明してある。

3等船室はふつう船底に近いエンジン機械室や貨物室に接するように作られている。 この室内パンフレットにもそう思わせるような、「通風採光には特に意を用ひ電動換気装置もあり、電燈、電扇(せんぷう)機、暖房器も完備し」という記述がある。 つまり、薄暗く風通しの悪い船室をできるだけ快適に過ごせるよう配慮されている、ということだろう。

644名の3等船室をどれほどの数の小座敷に収容したのかはわからないが、乳幼児を連れて臨月間近と見えるお腹をかかえた妊婦を他の乗客と相部屋にするとは思えないから、志津さんたちは親子だけで過ごせる小部屋を与えられたはずである。

うすりい丸など神戸―大連間の定期船の航程は次のように設定されていた。

  第1日 神戸 正午発
  第2日 門司 早朝着 正午発
  第3日 海上
  第4日 大連 午前8時着

       *11月より3月までは午前9時着

11月から3月まで大連到着が1時間遅れるのは、冬の海は荒れるせいだろう。

船に持ちこめる手荷物の量は船から満鉄の鉄道に乗り継ぐ乗客の場合、2等船客113キロ、3等船客は68キロに制限されていた。むしろや菰(こも)で包んだ物、箱物などは受け付けてくれない。

志津さんは鞍山に落ち着いて後に必要になる品々を前もって哲二宛に発送してあったから自分と子どもの着替えやおむつ、ミルクなど最小限のものを持ち込んだだけであった。

船内の食事は「案内」によると「一等は洋食、二・三等は和食」を供されることになっている。

どのような洋食が提供されたのか、「ニ・三等は和食」といってもどんな料理だったのか、具体的なことはまったくわからない。 2等と3等の船客の間では当然献立に差があったはずだが、志津さんの記憶も定かではなかった。

「案内」には「新鮮な材料を選び、調理を吟味し」とあるのだが。

5円のチップをはずんだおかげで“女のボーイ”さんが子どもたちを風呂にも入れてくれて志津さんは大変助かったという。

長男は誕生前から歩き始め、この連絡船に乗ったころには活発に動き回っていたから“女のボーイ”さんの存在は大きかった。

志津さん母子を乗せたうすりい丸は予定通り、神戸のメリケン波止場を出航して4日目の朝大連港の埠頭に横づけされた。

当時の大連港は4本の埠頭をもち、一時に34隻の船舶を係留する能力をもっていた。

小さな村にすぎなかった大連を商業港として開発したのはロシア帝国である。 大連という地名もロシア語の「ダーリニ―(「遠隔の」という意味)」にちなみ1904(明治37)年5月この地を占領した日本軍が翌年2月に「大連」と改称したものという(『満鉄四十年史』)。

港の構築も市街の設計もロシア帝国の立てた青写真を踏襲して建設が進められた。

志津さん母子のうすりい丸(この船名は満州とロシアの国境を流れる烏蘇里江にちなむ)が入った埠頭には満鉄の線路が引き込まれていて、運んできた船客の荷物や貨物を列車に直接移せるようになっていた。

また特徴的な半円型の屋根をもつ埠頭エントランスを入ると、5000人の客を収容できる待合室がつづいていた。

大連に入港した船の乗客は埠頭を8時30分に出る大連駅行きのバスの便があり、10分ほどで満鉄連京線の始発・終着駅である大連駅に行けたのである。


食の大正・昭和史 第八十七回
2010年08月18日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第八十七回

                              月守 晋


●志津さんの渡満 - うすりい丸(1)

志津さんが哲二のあとを追って満州に渡ったのは1935(昭和10)年の歳が明けて10日もたたないときだった。

満2歳半の長男の手をつなぎ、背に1歳3か月の次男を背負っていた。 志津さん自身のお腹には臨月間近な赤ん坊が宿っている。

神戸の港まで養母みきと、当時結婚して大阪に住んでいた姉のフサが見送りにきてくれた。

気丈なひとで他人に涙を見せたことのなかった養母のみきも姉のフサも、「もうこれが最後やな、生きているうちには二度と会えんワ」と志津さんの肩を抱いて泣いた。

フサは「姉」として共に育ったが、何度か説明したように生母みさの妹たちの1人であり事実上は「叔母」に当たる。

大阪の紡績会社に若い時から勤めたフサは志津さんが小学校を卒業する時や三菱造船に勤め始めた時など節目節目に着物や羽織などを買って送ってくれた優しい姉であった。

そして2人が泣いたように、志津さんはこの2人と生きて再び会うことはなかったのである。

昭和10年当時、満州へ渡るには新潟から汽船で朝鮮半島北東岸の清津港に渡り鉄道に乗り換えて満州に入る圣路、下関から関釜連絡船で朝鮮の釜山に渡り、鉄道で朝鮮を縦断し新義州から鴨緑(おうりょく)江を渡って満州側の安東に入る圣路、そして神戸港からの連絡船を利用する圣路があった。

大阪商船株式会社が満州への定期航路を就航させたのは明治38(1905)年1月のことである。 前年2月に始まった日露戦争のさ中で日本軍が遼東半島南端の旅順を落とした直後という時期である。

就航開始当時は舞鶴丸の週1便だったが翌明治39年には4便(大義丸、大仁丸、鉄嶺丸、開城丸)に増え、42年には南満州鉄道と連絡するようになった。

志津さんが2人の幼児を連れて渡満した昭和10年当時は8188トンの扶桑丸をはじめ吉林丸、熱河丸、うらる丸など10隻の大型客船が就航していたのである。

志津さん親子が乗船した「うすりい丸」は6386トン、航行速度18海里(ノット≒1850メートル)、昭和7年に就航したばかりの新造船だった。 エンジンはタービンである。

ちなみに昭和12年現在で「神戸―大連線」は就航船10隻で月に25回渡航している。

うすりい丸には1等特別室、1等、2等、3等の客室があり、定員は1等が65名、2等105名、3等644名だった。

客室のほかに食堂、談話室、喫煙室、バー、碁・将棋・麻雀台を備えた娯楽室、読書室、デッキビリアードなどがそろっていた。

料金は1等特別室が国内一大連間70円(神戸―門司間30円)、1等客室の神戸―大連間65円、同2等客室45円、3等客室19円、小児運賃が12歳未満は半額、4歳未満は1人に限り無料、2人目からは4分の1の額となっていた。

志津さん親子が乗ったのはむろん3等客室である。 乳幼児とはいえ子供が2人なので、志津さんの分19円に4分の1の4円75銭、計23円75銭を支払ったのである。

志津さんは係の“女のボーイさん”(と志津さんは言うのだ)に乗船早々にチップとして5円を手渡した。

“弟”の竹治さんの忠告に従ったのである。 竹治はこの頃大阪商船の乗員をしていて、うすりい丸にも乗ったことがあり、船旅の事情に通じていたのである。

おかげで志津さんの船旅は快適だった。 おむつの洗濯、赤ん坊のミルク造り、長男の遊び相手と何から何までやってくれるのでゆっくり休養できたのである。
 


泉麻人
2010年08月11日

44「チョコミント派の子は『チョコミント』一筋に青春を捧げている場合が多い」
    

   『おやつストーリー』オカシ屋ケン太こと泉麻人/講談社文庫

子どものころに食べたおやつの記憶をいつまでも鮮明に記憶している世代がありますね。 昭和6(1931)年の「満州事変」の年から太平洋戦争に敗戦した昭和20(1940)年までの15年間に子どもの時代を過ごした人たちです。

わたくしもちょうどこの期間に小学生時代をすごしました。いちばん記憶に残っているのはその頃、月に1回子どもがお菓子を売ってもらえる日があり、いつも閉じたままになっているお菓子屋さんの店がその日だけは開いていて、切符とお金をもって行くとお菓子の入った紙袋と引き替えてくれたことです。

中味はなんだか変に粉っぽくてたいして甘味のない小型のおせんべいのようなものと黄な粉を固めたようなものが入っていたと記憶しているのですが定かではありません。

ともかく甘くないお菓子だったという記憶が残っているだけです。

オカシ屋ケン太/泉麻人さんの『おやつストーリー』は1982年の夏から1991年夏までの9年間に、街のお菓子屋さん、コンビニ;駄菓子屋で買って食べることのできたお菓子のうちの320種ほどが時代の風潮やら背景、風景とともに紹介されているのです。

冒頭の文章はその第1ページの「チョコミント症候群」からの引用です。

このおやつストーリーにはチョコレートが主材料・わき役の多種類のお菓子が紹介されています。

たとえば“オカマ”と女子大生に人気があったという「マリブのさざ波」というネーミングのチョコレート(ロッテ)。

ビスケットの裏にチョコレートをコーティングした「キティランド(江崎グリコ)」はOLの間で“ウケがよ”く、3時のオヤツタイムにビスケットに描かれているどの動物がカワイイかを楽しんでいて「蝶ネクタイと耳あてをしたイヌ」が一番人気だとか。

両方とも1982年夏から冬にかけて人気のあった“チョコレート使用”の菓子です。

この他にも石屋製菓の「白い恋人」、ロッテの「ゴーフレットチョコレート」、不二屋の「シガレットチョコレート」、森永製菓の「フィンガーチョコレート」などなど。

さて冒頭の引用文のチョコミントはごぞんじの「サーティーワン」のもの。

「世界最大のアイスクリーム会社」といわれているサーティーワンですがその創業者の息子が家業の継承を放棄して、健康な食生活を追求・研究した結果を一冊の本にまとめています。

『100歳まで元気に生きる!』というタイトルです。

食べ物と“質”との関係を考えるときに役立つのではないかと思います。


食の大正・昭和史 第八十六回
2010年08月11日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第八十六回

                              月守 晋


●「満州」そして「満鉄」

「満州国」の建国が宣言されたのは志津さんと哲二夫妻の間に第1子が生まれた1932(昭和7)年3月1日である。 3ヶ月後の6月に夫妻の長男比呂美が誕生した。

「満州(以下、「洲」は「州」と表記)」という名称は中国東北地方の限られた地域に居住していた南方ツングース系の女真(じょしん)族の呼称であり、同時に半ば遊牧生活を営んでいたこの部族の生活域をも指していた。

清朝(1616-1912)初代の太祖ヌルハチは建州女真の出身であり、その勢力圏の拡大とともに「満州」の地域もひろがり奉天・吉林(きちりん)・黒龍江の3省に及んだ。

日本帝国と軍部が清朝最後の廃帝・宣統帝を満州国の執政(32年)から皇帝に即位させたとき(34年)満州国の領域はさらに北は黒龍江(アムール川)をはさんでソビエトに、西北境はモンゴル、西南と南境は中華民国領に接する範囲にまで拡大している。

中国はもちろん「東三省を武力で侵略してたてた傀儡国家」であるとして「偽満州国(ウェイマンチュウグオ)」と呼び一貫して認めていない。

哲二が鞍山に渡った最終目的は京都市電や日本の国鉄で身につけた旋盤の技能を生かして満鉄(正式名称は「南満州鉄道株式会社」)で働くことであった。

満鉄は哲二が鞍山に渡った1934(昭和9)年の11月1日に、特急「あじあ」号を初めて走らせた。 時速83.5キロメートル、大連から新京までの701キロを8時間30分で走行した。 最高時速120キロは当時、世界最速といわれた。

流線型のスマートな車体は淡緑色に塗装され、下部に白線が1本通っていた。 客車は展望1等車(4分の1が展望室、2分の1が定員30名の座席、読書室、化粧室、荷物室を備える)、2等車(定員38名)、3等車(定員44名2両)、食堂車(定員36名)ほかに手荷物、郵便車がついた。

あじあ号の客車には全車両に冷暖房と湿度を調整する空気調節装備が備えられていた。 これも世界初と誇れる設備だった。

「満鉄」は略称で正式名称は「南満州鉄道株式会社」である。 創設は1906(明治39)年11月で哲二と同じ年に生まれた。 当初の資本金2億円のうち半額を日本政府が出資し“半官半民”の会社といわれたが実態は国策会社である。

基盤となったのは1905年、ポーツマス条約(日露戦争の講和条約。 米ニューハンプシャー州ポーツマスで調印)によって清国の承認後にロシアから得た東清鉄道(旅順―長春間)及びその支線・付属権益・特権・財産・撫順等の炭鉱経営権であった。

これ以後資本金を29(昭4)年に8億円、40(昭15)年には16億円と増強した満鉄は鉄道と鉱工業を中心に多岐にわたる産業部門の子会社・関連会社を傘下に収め“満鉄王国”と呼ばれる巨大コンツェルンに成長した。

この間、主権者である中国側が黙視していたわけではもちろんない。 1920年代には排日運動が高まり、満州の地方軍閥は満鉄の路線に並行する新鉄道線を建設して対抗した。

満鉄は新京(長春)以北の新京―ハルピン間やシベリア地方に接する満州里―綏芬河(すいふんが)間などの北満鉄路(東支鉄道)を35(昭10)年にソ連から買収、満州全土をカバーする鉄道網を完成した。

「満州国」と「満鉄」の成立前には日清戦争・日露戦争以来の長い“前史”がある。 1931(昭和6)年8月18日の満州事変はその最終幕といえるだろう。

その前史をここで詳述することはできないしその任でもない。 しかし今後の日中関係に多少でも関心のある方は両国の近現代史に多少とも目を通していただきたいと希望している。

 [参考] 『忘れえぬ満鉄』国書刊行会
      『満鉄四十年史』満鉄会/その他


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