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食の大正・昭和史 第百四回
2010年12月15日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第百四回

                              月守 晋


●代用食

挽き割り大豆入りの外米ご飯の量をふやすために、小麦粉を水で溶いた中に残りご飯を混ぜてフライパンで焼くという志津さんの工夫は三男には断固拒否されて困らされた。

健康に育ちはじめていたとはいえ三男にはどこか神経症的なところが残っていて、匂いに敏感だし、見た目に気持ち悪いと思うと口に入れることを強く拒んだ。

たとえば米飯の食事に代えて手打ちのうどんを作って家族に食べさせたが、三男はそのうどんを長い虫のようだといって食べたがらなかった。

フライパンで焼いた残りご飯入りの“お焼き”も、そのご飯粒が白い虫のように見えるらしかった。

肉や食用油も統制で充分に入手することがむずかしくなってくると、哲二はどこからか白い脂分が1センチほどの赤身の上に4,5センチも厚く乗っている豚肉を手に入れてきた。

これを蒸し器でむして辛子醤油をつけて食べるのだが、不足しがちだった脂肪分を充分に補ってくれて零下20度を下回る冬を乗り切るエネルギーにもなった。

口に入れたときのぶよっとした感触を気持ち悪がって食べない三男を除いて、他の3人の子どもはみな喜んで口にした。 これは母親の志津さんも苦手で三男に強くすすめることができなかった。

学校から腹をすかせて帰ってくる子どもたちに食べさせるおやつにも困った。

冬にはじゃがいもをペチカの灰受けの中に入れて上から落ちてくる石炭の熱い灰で焼いて食べさせることができた。

焼けてくると部屋中にいもの焦げるいい匂いがただよってきて焼きあがるのを待ちわびる空きっ腹をグウグウ鳴らせた。

子どもたちはみなこの焼きじゃがが大好物だった。

ペチカと言えば釜山港や大連港にまだアメリカの潜水艦の魚雷攻撃を心配しないで渡航できていた昭和17年の冬、哲二の郷里から梨が1箱送られてきたことがあった。

あいにく梨は厳しい満州の冬の鉄道輸送の道中で哲二・志津一家が住む新京の満鉄社宅に届いたときにはカチカチに凍ってしまっていた。 しかし子どもの1人がカチカチに固まった梨の実をペチカの壁に当てて解かすという方法を発見して初めて口に入れる日本産の果物を賞味することができた。 いわば天然のシャーベットといえたろう。

太平洋戦争が始まる以前の新京では、商店が立ちならぶ繁華な吉野町あたりへ行けば、カラフルな粉砂糖ののっている動物ビスケットや黒蜜のかかったねじりん棒などを買って子どものおやつにすることができたし月餅などの中国菓子も買うことができた。

ロシア人街まで行けば、本格的なチョコレートも手に入った。

眼けん炎というまぶたが厚く腫(は)れる疾患の治療でロシア人街近くの眼科に通った三男がこの街で吉野町あたりでは姿を消していた本格的なチョコレートを買って食べたことがあった。

それはトリュフと呼ばれるものだったろうと思われるのだが、豚肉1斤(約600グラム)が80銭に比して1個50銭と高価だった。 しかしともあれ金さえ出せば他のロシアケーキなども手に入ったのである。

豚肉は満州の生活では必需品で、満鉄社員消費組合を通じて手に入ると志津さんは哲二も子どもたちも大喜びするスキ焼を夕食の献立にした。

食べ盛りの男の子の食欲を満たすためには量を増やすことが必須で、志津さんは白菜や焼き豆腐、糸こんにゃくに加えてじゃがいもを大量に加えた。 豚肉と醤油、砂糖の甘辛い味のしみたじゃがいもを子どもたちはもくもくとたいらげたのである。


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