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中島らも
2010年12月29日

『チョコレート人間劇場』

51「ドガキナイがあんまりうれしそうにチョコを食べるので、そのぶん余計に我々は申し訳ない気になって・・・・・」
    

   「チョコと鼻血」/『獏の食べのこし』
中島らも/集英社文庫

中島らもという作家はもうこの世にはいません。 たしか5,6年前(7,8年?)に事故を起こして亡くなったのではなかったでしょうか。

“事故”といっても車の事故なんかではなくて、泥酔してバーの階段を転げ落ちたためだったと記憶しているのですがまちがいかも知れません。

1952年尼崎市生まれのらも氏が「今夜すべてのバーで」という作品で吉川英治文学新人賞を受賞して作家としてデビューしたのが92年ということですから40歳、10代の作家誕生が少なくない近年に比べればやや遅いデビューということになるでしょうか。

掲出分の“ドガキナイ”は同級生で「九州の田舎から出てきて下宿生活をし」ている「赤貧洗うがごとき苦学生」で月末の仕送りが切れるころには餓死寸前になって畳の上でピクッピクッとケイレンしているような男、と説明はつづいています。

“ドガキナイ”のもう1つの呼び名が“八十童貞”で80歳くらいまで女性に縁がない「タラコ唇で水虫持ち」の男、だというのです。 「僕」と金満家の息子でルックスがよくて女の子にバカもてしてバレンタインには始末に困るほどチョコレートをもらってしまう同級生のコーノの2人は、“八十童貞のドガキナイ”をからかってやろうと彼の下宿に出かけます。

ケイレンしながら寝ている“ドガキナイ”の枕元に何十枚というチョコレートをばらまいてやると、彼はチョコと2人の顔を交互に見ながら

「すごいのう。パチンコか?」

といいながらたちまち3,4枚たいらげます。

それを見ながら2人は「尻のすわりが悪くなる」ような気分に襲われます。 2人は“ドガキナイ”が「バレンタインデーというものがこの世にあること」をまったく知らないのだということに気づいたからです。

バレンタインにチョコ1枚女の子からもらえない“ドガキナイ”をそのことでからかおうにも、相手がそういう世の中の流行にまったく無知ではからかいようもありません。

著者は同じエッセイ集中の「不可触球場」の項で「今の企業の方法論というのは・・・・・・無いところにマーケットを造り上げる」というやり方になっており、たとえば「アラスカにクーラーのマーケットを現出させるためには幻想の力を借り」なくてはならず「幻想には形がないが何かに仮託(マップ)する」ことができる、と指摘、次のように述べています。

「愛がチョコレートにマップされることでそこに市場が現出したように」と。


食の大正・昭和史 第百六回
2010年12月29日

『食の大正・昭和史---志津さんのくらし80年---』 第百六回

                              月守 晋


●引揚げ

哲二不在の志津さん一家が1945(昭和20)年8月15日正午の天皇の肉声による「終戦詔書」の放送を聞いたのは疎開先の北朝鮮平壌(ピョンヤン)郊外の小学校の校庭である。

約1か月後、志津さんたちは南下してきた経路を逆に北上して新京に戻ることになった。

平壌から釜山まで南下して船に乗れば1‐2月もあれば日本のどこかの港にたどりつけたはずである。

そうできなかったのは38度線以北の地域がすでに9月から侵攻を開始したソ連軍の管理下にあったためだった。

新京へ帰る無蓋車の旅は途中で何度も中断された。 列車が暗夜の線路で停止するたびに貴金属や紙幣が集められ女性が何人か姿を消した。 機関士やソ連警備兵への貢物であった。

新京の満鉄社宅のわが家にたどり着いてみると、28人もの若者が住みついていた。 北の国境付近からのがれてきた満鉄の機関士や機関助手たちだった。

志津さんたちは奥の一室を空けてもらい若者たちと同居することになった。

翌46(昭和21)年2月、ソ連軍や現地人暴徒の手を逃れて哲二が志津さんたちのもとに戻ってきた。 ソ連軍につかまっていればシベリアへ送られて強制労働をさせられ命を失っていたかもしれない。

社宅ぐらしに戻ってすぐソ連兵の略奪に2度も遭い毛皮のコート類や腕時計などを根こそぎ持って行かれた。 “マンドリン”と呼ばれていた72連発の自動小銃を抱えたソ連兵は腕に5本も6本も腕時計を巻きつけ、電燈に灯をつけようとマッチの炎を近づけた。

志津さん自身が連れ去られそうになり、4人の子どもが母親のからだや両足にしがみついて大声で泣き叫んでやっとことなきを得たということもあった。

敗戦後の新京に連れ戻された志津さん一家のくらしを支えてくれたのは疎開した当日(昭和20年8月11日)の午前中に満鉄が預貯金や積立金の解約をすすめてくれて払い戻された2千数百円の現金だった。

敗戦前ならこれだけあれば一家5人のくらしを2年は持ちこたえられたろう。 しかし敗戦後はソ連による「満州国資産」の強奪ともいえる自国への“搬出”や中国国府軍と共産党軍との内戦を予期させる混乱によって諸物価の値上がりが続いていた。

子どもたちは関東だきの屋台売りやねじりん棒の行商に手を出したがどちらも競争相手が多くて家計の足しにはできなかった。

長男の比呂美は同居していた若者にさそわれて機関区へ“石炭を拾い”に行った。 列車を編成する際に汽関車の罐(かま)でたく石炭を石炭車に積み込む。 その作業中にこぼれ落ちる石炭を拾ってくる、というのは名目で内実は“石炭ドロボウ”にほかならない。

何回目かに監視人につかまり深夜になってただ1人解放されて帰ってきたが、機関区のボスが好運にも哲二の下で働いていたリーさんだった。 リーさんは年2度の大掃除の時には手伝いに来て粟混じりの米飯を丼に3杯も4杯もおかわりする大食漢として子どもたちは親しんでいた。

敗戦翌年の3月から4月にかけて長春・奉天・ハルビンからソ連軍が撤退、中共軍が替わったが短期間のうちに国府軍の勢力下に入ると市内情勢は落ち着いてきた。

そのころから中国側は技術者や医療関係者を留用することを始めた。

旋盤の熟練工だった哲二も一時鉄道工場に呼び戻されて働いていたが4月に日本へ帰国できるという情勢になってきた。 46年4月23日に国民政府から日本人の遣送命令が出され5月7日には壺盧(ころ)島から引揚げ船が第1陣2400名を乗せて出港した。 長春の引揚げ開始は7月8日から始まり、留用を固辞した哲二は志津さんと4人の子どもたちを連れて南新京駅で引揚げ者用の無蓋貨物列車に乗り込んだ。 夜の寒さが身にこたえ始める9月21日の午後だった。

敗戦前後の約1年3か月の間、哲二・志津さんと4人の子どもたちの6人家族は何を口に入れて命をつないでいたのだろうか。

記憶に残っているのは敗戦後初めて食べたコーリャンだけを炊いたボソボソ飯と、荒天の東シナ海を航行する引揚げ者用の米軍の上陸用舟艇の船中で食べた少量の麦とコーリャン・干し大根葉・その他の混じった粥、それに広島で乗り継いだローカル線の車中で末っ子の娘が向かいの席にすわった老婆からたった1個恵まれた真っ白な握り飯の輝きだけである。

哲二・志津さん一家6人が哲二の郷里に着いたのは新京を出てちょうど1か月後の10月21日の朝だった。


この連載は今回で一応終わらせていただきます。機会と準備がととのえば、引揚げ後の志津さん一家のくらしの変換をたどってみようと考えています。


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